〈かってそこにあった〉ものとしての写真 03-13
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新宿

マイケル・チミノ監督の作品に「心の指紋」(原題:THE SUNCHASER 1996年)という映画があった。
末期ガン患者であるインディアンの強盗殺人犯ブルーは、診察にあたった医師マイケルを人質に取って脱走を図り、インディアンに伝わる伝説の聖なる山に向かう。聖なる山にある湖に身を浸せばガンも治癒する…。
といったストーリーで、全編走る車の中で物語が展開するロードムービーだった。
わたしのお気に入りの映画である。

映画の最後、苦労の末、ブルーとマイケルは聖なる山にたどり着く。
スクリーンに姿を現した聖なる山はそこまで映画につきあってきた観客を十分納得させる見事な山だった。クライマックスに登場するにふさわしいまさにイメージ通りの山…
しかし、その山は(たぶん)CG合成だった。


 〈かってそこにあった〉ものとしての写真 03-13_a0022814_214249.jpgこのCG合成の山は観客への裏切りである。
CGは作り物だ。しかし作り物がすべていけないと言っているわけではない。スターウオーズやジュラシックパークのようなファンタジー映画ならかまわない。CGがいくら本物そっくりでも最初から作り物だとわかっているからだ。しかし、シリアスドラマで登場するCGは事情が違ってくる。作り物ではなくニセ物となってしまうのだ。作り物はよくてもニセ物はよくないのである。
ロラン・バルトは他のメディアにない写真だけの特質を「かってそこにあったもの」と定義した。写真は、被写体が反射した光を光学的なプロセスを経て感光材に記録したものである。被写体がかってある時ある場所に存在したことが写真の絶対条件である。
しかし、CGは被写体が存在しなくても光を創造し形態を作り出す。かっても今もこの世に存在しなかったものを生み出すCGは写真ではない。
写真ではないものを聖なる山にしてはならなかったのだ。たしかにシリアスドラマといえど虚構には違いない。しかし、シリアスドラマはリアリティを前提に成立している。虚構である映画のリアリティを支えているのは写真である。その写真をニセ物(CG)に差し替えたことで映画は突如リアリティを失ってしまったのだ。シリアス映画にでてくる場所は、観客がそこに行ってみたいと望めば実際に行ける現実の場所であらねばならない。

デジタル時代の映画(写真)は死に至る病にかかっている。
もはや快復は望めないのかもしれない。

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神保町

森山大道のインクジェットプリントを売っていた。1枚60000円。←6万円です。
by ondtp | 2006-03-12 21:53 | SOMTHING NEW
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